バイクへの情熱がしぼんてく先は…

「バイクでやること無くなってきてるな…」

「乗るけど最近ワンパターン化してきたな…」

今回はそんな悩みを持った人に向けての話。それ以外の人は見なくても大丈夫。戻るを押して今まで通り楽しくバイクに乗っちゃって下さい。オレが言うまでも無いだろうけど。

それと見る人は注意。まあまあ文が長いから、暇な時に見てね。

じゃ、振り分けて環境が整ったところで早速。

 

そういう悩みを持つ人は志が高めだから、新たな刺激を求めて、ロングツーリング、マスツーリング、サーキット場と、まだ見ぬステージへ脚を運んだりする。

一方で今あるモノを愛し、バイクをカスタム、身に付けるものを高性能にしたり、お気に入りのメーカーのグッズを集めたり。

いわゆるバイクという山へ、人によっては沼へ進み進んで進む傾向にある。

しかしそこには金銭的、時間的、まあとにかく自分の築いた環境との摩擦が生じるのは、ほぼ必至だろう。

その中で無茶や折り合い、時には妥協を使って自分の限界まで1歩でも先に高く、深いステージへと身を置きがちだ。

 

出来ないより、出来る方が良い。

知らないより、知ってる方が良い。

界隈を見ても、あんなことをした人が称賛されてる。

界隈を見ても、あんな話をしていた人が重宝されてる。

すげえ、バイクって思ってる以上に深いんだ。

あそこにあるキラキラ、自分も体験してみたいな。

 

…そんな時はちょっとだけ、待ってほしい。

「そもそも自分はバイクで何がしたかったんだっけ?」

ということをもう一度考えて、掴みたいソレと血脈は繋がってるかを確認してみよう。

 

学生時代、生活のアシの為に買った。

バイク乗りの友達に誘われて、引き込まれ買った。

偶然見かけたバイクの造形に惚れて買った。

いま一度、心の根底に根付く「バイクでしたいこと」を思い出して、元々の自分が打つ鼓動を大切に、忘れず見失わないであげて欲しい。

 

オレならこう思う。

後にクルマを所有して事足りるなら、もうバイクはいらない。

友人と遊ぶのはバイク中心でなくてもいい、と気づいたらバイクと適切な距離が取れる。

見初めたバイクの美しさに慣れ飽きたら、繋いだ手を放せばいい。

確固たる動機が生まれてこそ、モノやコトは自分の中へ強く宿る。逆にそれが無い又は失われたら、バイクという存在は無用の長物も良いところだ。

と言いたくなるのも、趣味のとある側面が悪さをしていて…

 

趣味は趣味というだけあって、大量の複雑な魅力に溢れている。最初の目的とは予想出来ない角度で自分の感性に刺さり、取り組みを始めてみることは決して珍しくない。

でも、それが習慣化されていくと「少しでも自分に刺さればやってみたい」という、一種のもったいない精神が根付きやすい。

キラつくアレコレについ手を出してしまい、何をするにも前向きより先行して、当初より取り組みに懸ける意図の純度が下がっていく。

すると「退屈ではないそれ相応な時間」に趣味が満たされ、全体を占めてくようになると「なんかあの頃より楽しくなくなってきたなぁ」と気持ちが澱んでしまう…と、オレは思っている。

そんな「趣味の延命治療」のような行いをするくらいなら、勇気を持ってソイツから一旦離れた方が良い。

コレは実体験であり、聞いた話であり、聞かされた話である。だから珍しく言い切る。

みんながみんな趣味の世界で、常に誰もが振り向くキラキラを持とうとしなくていい。1番大事なのは自分に逆らいの無い健全な心の動きだ。

 

正直、キラキラを持てるなら持ちたいという気持ちも分からんでもない。

でも多分だけど、自分事で自他を振り向かせられる人は、思考の9割近くをその事、今回だとバイクにのめり込める人間なんだよね。

動機の軸が多く、太く、外からの取り込みも即座に自分事のように動ける、生まれながらのジャンキーでモンスターみたいな気骨を持ってる人。

まあ、なんというか……インドアにアウトドアと様々に楽しいことがある世の中で、色んな意味で特別な存在だ。もっと言うなら軽く魂なげうってる奇特な人だ。

称賛と重用ぶりからくる輝きでみんなの目が眩ませてるけど、見えない所ではかなりハードな出来事やプレッシャーなどがあると思う。山や沼へ行ったことがある人なら分かると思うけど。

あの倍、ヘタすりゃ10倍以上だ。高く深い分当然リスクだってある。その先で何かを得るとしても、誰もが趣味でそこまで背負えるか?なってみたいか?というハナシだ。

 

それなら平原や麓みたいな所で、キラキラを持たずともゆったりするのだって立派な活動だ。

小一時間バイクに乗って、映画を観て、音楽にふけり、ボールを持って打つなり蹴るなりして、気のおける人とブラブラする。

熱心な有識者から「浅くてブレてる」と冷笑されるかもしれないが、やってみるとそんな生活も楽しい。

 

そう、元来趣味は己の生活を彩るもの。各々が持つ楽しいに忠実となり満開の楽しいを満喫すること。人によって何もかも違うことなんか当たり前だ。「やってみたい」に対する必要な技量も、知識も、情熱も、環境も。

だから他と比べて悲喜したり、腕を引っ張りあげたり、足首から引きずり下ろすこと自体ナンセンスで、対象と自分に対するマナーが欠けている気がしてならない。

今一度バイクで心の底からしたいこと、そしてそれに必要な事をよく考えてみよう。

 

誰もプラッと安全にツーリングするだけの為に300km/hからのブレーキングをマスターする必要は無いし、素材の優劣を知る必要も無いし、後ろの乗り物に追い抜かれて本気で悔しがる必要も無い。

限界など知らず体験せずとも、看板と信号守って、人と物にぶつからなければ良いのだ。

じゃあその為に手に持ったそのパーツは必要か?あの装備は必要か?あのバイクじゃなきゃダメなのか?目先を変えるだけの生け贄にはなってないか?

自分が知らないステージを見てみたい為に必要な事は何だ?

時間?速いマシン?己の体力?

そもそもそこは知らない土地なだけで、本当に行きたい場所か?あの時のように、したいことか?

というかコレって、あそこのあの人や今までの自分に追い付け追い越せと、必死になってやらなきゃいけないことか?

自分にとってのバイクという存在をよく考えてみよう。

 

何故を繰り返していき、思い入れの根っこを掴む。

「バイクでやること無くなってきてるな…」

「何だかワンパターン化してきたな…」

この人達はバイクに希望を持てなくなったんじゃなくて、何となく乗ることに飽きてるだけだ。

しっかりバイクと向き合って、どっかから取って付けたような欲望ではなく、あのときそのとき内側から湧いた100%のポジティブを時間かかってでも丁寧に拾い集め行動してからでも遅くはない。「折角」や「どうせなら」に惑わされてはならない。

その間に周りは色々取り組むが、自分の今までこれからの足跡を信じて欲しい。どう駆け抜けたか覚えてない100より、踏んづけたシワの1つ1つ覚えてる10のが違うステージへ移っても替えの効く良質な自信や好奇心が増す。

その為に自分をよく見つめ直し、焦らず、比べず、羨ましさに負けず、やりたいことをやる。その末でバイクに乗らないことだってあるかもしれないけど、問題ない。バイクは豊かにするものであって正義ではないから、そっぽ向いても何にも起こらない。

そのうちどうにも乗りたくなる時が来るから。それまでは自分が本当に気持ちが動いたことをしてよう。

 

とまあ、書いてはみたけど、内容が内容なので果たして何人が目を通し「良いんじゃね?」と思ってくれるかは分からない。10000人に1人かもしれない。

恥ずかしくても、薄っぺらく受け取られても、書かずには居られなかった。

背中を押すこと出来ない不完全でも、肩叩いてやるくらいなら出来るんじゃねーかと。バイクがイヤになり始めちゃう前に何とかなるんじゃねーかと。

その取っ掛かりになるなら、需要も恥なんて何ともねえなと。

久しぶりに書いたもんで長くなっちった。反省はしてないけど。また何かあったら長短関わらず書いていこうと思う。

それじゃ、また。