根本にある考え方というものは何歳になっても変わらない。最近、学生時代の友達と連絡してるとそう思うときがある。
内容は年相応になってるが、話し方の端々やLINEの文体に触れると「アイツっぽいな〜」と懐かしく感じる。
ふと自分にもあるのかと振り返ってみると、あった。特にモノへの感じ方が。
遡ること小学生3,4年生。皆がギア付きのなんちゃってカゴ付きマウンテンバイクを欲しがる中、オレは爺ちゃんが乗ってる銀色のママチャリがどうしても欲しかった。
ある日、親の目を盗んでサドルを1番下まで下げて跨ってみると、腕も足もギリギリ届いた。でも動き出そうとするとどうにもバランスが取り辛い。
成人用に作られてるから、当たり前と言えば当たり前だ。それなのに「オレに合った乗り方さえ覚えれば…イケる!」と1人ワクワクしてた。
あまりの興奮に次の日には「難しいを乗り越えてこそチャリでしょ」「何かに成功する、それがカッコ良さなんだ」と爺ちゃんを説得していた。数時間に渡る格闘の末、ついに一緒に散歩をするとき限定で乗れることになった。
最初は発進でグラ付く。「止めとこうよ」と爺ちゃん。
少しすると、公園前の長いストレートを漕げるようになった。「皆と同じの買ってあげるからさ」。
1ヶ月もしない内に不格好ではあるが、爺ちゃんを置いて町内を回れるようになった。「今度ママチャリ買いに行こうか」。
…この頃から乗り物を乗りこなすということに魅力を感じていた。ギアの有り無しとかデザインがカッコ良いよりも、考えて走る事柄の多さ最優先。それが今オトナになって手元にはR25とGROM、そしてエブリイ。そりゃそうなるよ。
単純なモノのエネルギーなら大型バイクにスーパーカーがベストなんだろうけど、それじゃ少し物足りない。
だってさ、ソイツらだと完成度や限界値が高過ぎて色々な感情や操作の起伏を飛び越えるのよ、日本の公道じゃ。ちょっと捻って踏み込んだら針は60,100まで上り、何がどうでそうなったかも分からないまま迎える赤信号ほど悲しいものは無い。
そして終わったときには「何かスゴかったねぇ」が大半を占める。
速さを出すための工夫や諦め、止まるための予測や丁寧な操作、曲がるレスポンスに対するアンテナの張り方。それらを考えることが結果無駄や遠回りになったとしても、1つ1つを丁寧にチャレンジする道を選びたい。
楽しむなら楽しちゃいけない、とでも言うべきか。そこはチャリだろうがバイクだろうが、魅力の求め方は10年以上前から何も変わってはない。
こんなだからか、友達に自分のバイクやクルマについて話すと「お前っぽいな〜」と言われる。
多分どんなにカネと時間があっても、いくら年を重ねようと、良く言えば世間体に流されない、悪く言えば自分が良ければ何でもOKな無頓着男としてオレはこれからも生きていくんだと思う。何か書いててそんな気がしてきた。