見られるように、見られぬように

最近、Twitterのツイート閲覧数が表示されるようになった。

ふーんそうなんだってアプリをパカッと開くと、コレがまた何ともな有り様で。

流れてくるタイムラインの左下には100,1000,1万,10万が刻まれてる。

おおスゲーなと思いながら自分のを見てみる。

なんと20ちょい。他と比べると少ない。数字の量も相まって子供の頃の財布を見せ合いっこしてるみたいだった。

もし他人がオレの左下の数字に気付いた瞬間「うわ少なっ」と思うかもしれない。そういや学生時代に定期券と30円の入った友達の財布を見て「あらまた随分と」なんて言ってたし。

 

意義のあるデータが誰の目にも届いてしまうのは、良くも悪くもその人が出る。ちょっとした、本当の意味での呟きでも、その人自身に向けられた注目度、期待度、アクティブな交遊の広さなどが分かる。

それに則して言うなら、オレのはヒドい。ブログやSNSをやってて繋がり様はいくらでもあるのに、何でそんなもんなんだと。

ちょっと意地悪な人なら「価値見出だす為にやり方変えなよ」、もっと意地悪な人なら「意味が無いからやめちまえ」って思うかもしれない。

 

あのね、オレにはこれくらいがちょうどいいの。

まあその、改まって気付いたんだけどさ、そういう状態の突き付けが表面化すればする程、ワクワクする。気持ち良くブログが書けるし、SNSをやれる。

価値や意味の不安定さ、いわゆる「誰が見てるの?」というトゲを「誰が見るか分からない」というブラックボックスに転換して書いてる方のが性格上楽しめるのよ。

このまえ見てくれたあの人はまた来るのか、それとも興味がなくてスルーするのか、計算がつかない状況がどうにもテンション高ぶっちゃって。

見てくれて当たり前、見てくれるよう周りに喧伝する、その先で生まれた数字は……個人的にはどうにも面白くない。そもそも傲慢や時間のカツアゲは嫌いだ。

 

同情に近い傷のなめ合いもない、同朋による結託すらない、「こんなの居たな」なんてフラッと寄って「良いんじゃないの」と思ったらそれなりのレスポンスが来る。

そこには「この人なら見なきゃ」という義務感や「この人のだから見るかな」という惰性と束縛の交じりは極めて薄い。

見るかと思って見たい人が見る。見ない人はもちろん見ない。書き手と読み手の意志疎通がストレートでいい。

気持ちの純度が高いやりとりと環境作りは、とても心地が良い。

それもこれも根本は、自分から仲間を集めてない、過去に少しでも気に入った人しか知られていない、そんな温度で運用されてるアカウントだから出来る遊び。

愉快だ。痛快だ。その上Twitter社からこんなに相性の良いスパイスを貰ったんだから嬉しくて嬉しくて。

数字の大きさだけじゃなく、数字の小ささでも遊べるようになれた年末のことだった。

 

おまけ。

ちょっと話はズレるけど、オレのアカウントってフォロー数が30くらいで、相互フォローが20弱なのね。しかも半数は(元)を含めたはてなブロガー。

で、ツイート閲覧数は20くらい。小さく見積もってもブロガー全体の1/5くらいは見掛けてはくれてることに驚いた。

オレてっきり内容面白く無さ過ぎて大体がミュートしてんだろうなと思ってた。ちょいと調べたら何故かフォロー解除もされてないし。

「こんなでも、まだ見てる人は見てんだな」と思ったら途端に可笑しくなってきて、この記事を書いたの。

吹けば飛ぶようなアカウントが書く文を、ココに関しては長文を誰かしらが見ようなんて、なんという酔狂っぷりだろうと。

もう年末はその微かな量なのに心踊るような気持ちにベットしてやろうと。年末特番見たいけど、コッチのが断然面白い。

 

これもいわゆる数字主義の絶対的王道を進まなかったからこそ生まれた感情だ。90点、100点の世界じゃなく、赤いペンで書かれた花丸の世界。

小さいのも大きいのも、良し悪しは無い。ただ疲れて飽きては休み、時が経てばまた埋めていく。

ゆくゆくは、あしかがフラワーパークひたち海浜公園くらい綺麗になれたら、それはそれで面白いんだろうな。

 

それと最後にちょっとだけ。

2022大晦日Twitter経由の酔狂と、もちろんブラウザ経由の物好きにも、心を込めて言わせていただく。

ほぼ一方通行みたいなやりとりだったけど、非常に面白かった。ありがとう。

 

まあ、誰に向けてか把握し切れてないけど。

そして、届いているのかも分からないけど。

 

おしまい。